大人の朝帰り
まだ動き出す前の街の風は澄んでいて冷たく、二人揃って俯き加減に気だるく歩けば、それぞれの職場へ忙しなく向かう人とすれ違うたび少し気まずく、それでいて本性に従う自由さが朝日の中でやけに眩しく光って見える。 お酒を飲むと心がほころび帰りたくなくなってしまう。 帰るといっても空間や環境といった場所ではなく、このまま瘋癲な世界に留まりたくなってしまうのかもしれない。 それにしても50歳を過ぎて通常の社会生活からはみ出した時間を共有できる人がいるのだから、人生は歩き方次第で幾らでも楽しいものに変えられると思える今が何より嬉しい。 先生と出会う前、たとえようのない侘しさを感じていた。 心を埋める手段を模索しながら、虚しさの正体さえ掴むことができず、身を竦めて時の流れをただ見送った。 元々寂しいから恋がしたいと思えるほど純情な心を持ち合わせてはいなかった。 もしかしたら恋の醍醐味がなんであるか、理解できる感性を持っていなかったのかもしれない。 それは友情も同じであり、大勢の人に囲まれることを望みながら、円熟すれば安っぽい人情ドラマの主人公と化している自分を恥ずかしく思う捻くれ者だった。 そんな自分と向き合いながら、寂びむ心で過ごした時の代償が42歳で静かに炎上し、その付けが回った(高じた?)おかげで長年追い求めてきた空想の人物と出会うことができた(^^ゞ 『災い転じて福となす』 そう思ってしまえるのは自意識過剰な性格の表れかもしれない。 それでも嬉しい出来事との出会いには素直に感謝したいと思う気持ちは常にある。 先生はまるで自分を見ているような人だった。 だから相手の心読むことなく、思いのまま振舞える自由さに安らぎを与えられている。 今思うこと… 幸せは自分の心が決めるものであり、いつ何時も我が人生の傍観者になってはいけないと…。 美月 |
2014-01-25 Sat 00:30
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